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アドラー心理学って厳しすぎないか? 幸せになる勇気を読んでみて。

こんにちは、まえぴです。

岸見先生著のアドラー心理学本「幸せになる勇気」の第5部のまとめです。

アドラーが説く人生の3つのタスク、交友、仕事、愛の中の愛について深く突っ込んだ話を展開されています。

最後まで読んでみてわかることは、アドラー心理学は非常に自分に対して厳しい心理学といえます。フロイト精神分析学のように何か外的で過去の要因があって、それを理由として現状を理屈つけるのではありません。アドラーは目的論であるので、例えば愛せない原因は、愛したくないという目的が、実は本人に潜在的にあることを説いています。なんだか、自分の本当の深層心理をえぐり取られていく感じがあります。しかし、言い訳ばかりの人生とは縁を切り、自分に素直になって、こんな自分でもいいんだと自分自身を承認して幸せに生きていく勇気をGETしていくには、良い本だと思います。私自身の理解のために、会話形式でまとめています。わかりにくいたとえや言い回しがあるかもしれません。

 

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

 

 

目次

愛することは簡単か?

愛することは、難しいとか簡単だとかそういうことじゃないよ。結局相手次第だよ。何が難しいって、愛するべき人と出会うことなんだよ~。そんな人と出会えたら、愛する事なんて、簡単なの。落ちる愛ってこういうことだよね。もうその人のことが頭から離れられなくて、ずっと考えている感じ!

 

つまり、「どのように愛するか」ではなく、「誰を愛するか」ということが大事だということだね。愛せる相手であれば、難しいこと考えたりしなくても愛することができるということか。

 

当たり前だよ。顔だったり性格だったりどこかしら、トータルに見て好きになれるところがないとやっていけないよ。

 

君の言う「落ちる愛」というのは、妄想だよ。仮に君が表参道を歩いていて、ショーウインドウでたまたま見たシャネルのスカーフに、心が奪われてしまったとする。まるで恋に落ちたかのように、スカーフに取り付かれ寝ても覚めてもそのことで頭がいっぱいになる。

 

でも、いざ手に入れると半年もしないで飽きてしまい、クローゼットの中で眠ってしまう。スカーフを付けて外出したかったわけではなく、ただそれをゲットして、キープしたかったんだよ。

君の言う「落ちる愛」は、彼をキープし自分の言うことを聞いてくれて、楽しませてくれることを望んでいる、彼への所有欲、征服欲とは違うのかい?

人間によっての愛は、運命によって定められたものでもなければ、自然発生的なものでもない。我々は、愛に「落ちる」のではない。

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愛は落ちるものではない

 

そんなに簡単にできるのであれば、人生のタスク(課題)といわれるまでのことだろうか?

 

愛=二人で成し遂げる課題

人はみんな幸せになりたいと思っているよね?

 

当たり前だよ。幸せになりたいと思って異性とお付き合いするもんでしょ。

 

それは、幸せになりたいのではなく、「楽になりたい」のだと思うよ。 付き合うということで、精神的な安定や体裁、あらゆる享楽的なことをやりたいということでもある。

 

人間にとっての幸福とは、アドラー心理学ではどういわれているか覚えているかい?

 

それは、貢献感、つまり「誰かの役に立っている」って自分が感じられたときに幸福を感じるっていうことだったよね。

 

そうそう。実際に役に立っているかどうか、相手が私に感謝しているかどうかは、別として、私自身が「役に立てなー!満足満足(^^)/」って自分で勝手に思っていてもそれはそれで幸福っていうことだね。

 

なんか、お調子者っていうか、頭の中が花畑って感じだね(笑)

 

とにかく、役に立っている感覚、主観的な感覚が人生のタスクにおいて感じられると幸福になるとアドラーは言っているんだ。仕事でも、交友関係でも、愛の関係でもね。

 

だから、すべての悩みの原因は対人関係だけど、幸福もまた対人関係から来るということなんだね。

それはそうと、愛は二人で成し遂げる課題っていうけど、これはどういうことなの?

 

二人で幸福を成し遂げる。一般的には、夫婦で成し遂げるということに当たるかな。

交友のタスクは、今まで「わたしの幸せ」を追求していれば結果として、周りの幸せにもなるということだったけど、愛のタスクでは「わたしたちの幸せ」を構築していくことにあるんだ。「わたし」だけでなく「あなた」だけでなく私たち二人が幸せでなくてはならない。二人で成し遂げる課題とはそういうこと。

 

今までは、愛されることを考えて生きてきたかもしれません。それは親の養育家であればよかった話です。親の愛は無条件の愛です。「愛されるための生き方」、もっと平たく言えば、注目される生き方、自己中心的な生き方、それからの脱却できるのが愛であるのです。

愛は自立です。大人になることです。だからこそ愛は困難なのです。

 

 

運命の人はいない

アドラー心理学では運命の人を認めていない。

 

もしも運命の人がいるのなら~♬ていう歌詞もあるのに、なんかロマンチックじゃなくて残念だな。

 

どうしてロマンチックな幻想を結婚相手に求めるのか。アドラーは、自分にはもっと運命的な出会いがあるとか、もっといい人がいる、という可能性の中で生きたいということを指摘したいんだと思う。

 

出会いがないのよ。最初に言ったけど、愛せる相手と出会うのが難しいの。

 

それは、幸せは向こうから訪れるものだと思っているからだよ。運命の人に出会いされすれば、私の人生はうまくいくって可能性の中で生きようとしているんだよ。

 

ちょっと厳しすぎる指摘なんですけど。みんなそんなものでしょ。じゃ、道端で歩く男の人と誰でもお付き合いして結婚してもOKっていう話なの?

 

それをあなたが決意するなら。もちろん、誰かと運命的な出会いを果たし結婚し、その後も幸せに暮らすカップルもいる。「運命」と感じた人も多いと思う。それは、定められた運命ではなく、「運命であることを信じた」ことを決意した、ということだよ。

エーリッヒフロムの言葉で、誰かを愛するということは単なる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。とある。

 

出会いのきっかけはどのような形でもよくて、あとから運命の人だったんだなって思えるような努力を夫婦お互いにしていくということだよ。

 

それじゃ結婚する意味ってなんなのさ。運命の人はいないんでしょ。結婚してしまえば、この人と一緒のほうが人生うまくいくかも的な可能性だってつぶれてしまうわけでしょ?

 

愛というのは、自立することだとさっき言ったけど、私たちは、他者を愛することによって自己中心性から解放される。そして、アドラーが人生の目標とする共同体感覚というところに感じる境地まで落とし込むことができるっていうんだ。愛する勇気をもって、幸せになろう。

 

 

まとめ

アドラー心理学の本は何回読んでも、学びがあって面白いです。ただ何回読んでも、厳しい心理学だなって思います。機会があれば、「幸せになる勇気」と「嫌われる勇気」を勉強した内容をアウトプットしようと思います。